天皇の心

元来、天皇というのは神道の神主の中にあって、最高位に位置する存在です。ちょうどローマ=カトリック教会の最高位がローマ法王であるようにです。

昔から神主は「言挙せず」といいます。(<言挙>ことあげ:ことさら言葉に出して言いたてること。揚言。)
つまり、神主の使命というのは「唯、天の意思を人々に指し示す」ということにあることから、そこに個人的な主観や主張が混じってはならないのです。

以前に皇太子が雅子妃の弁護をした「人格否定」発言が大問題となったことがあります。
それは言葉は大変悪いですが「自分の女房を何とかして欲しい」という、極めて個人的な意見が入っていたからです。
一般人の私たちからみれば、あの厳しい皇室の世界にあって、我が妻を守っているという点では、大変頼もしく美談にも受け取れます。また、そうした意見も大変よく理解出来ます。
しかし、天皇や皇室の宿命的な役割や使命という観点からすれば、あれは大変な問題だったわけです。
それくらいに天皇という立場は、日本では一般の神主の中にあっても、さらに無私の精神で、公に生きることが求められているのです。

天皇家に嫁いだものがイジメにあったり、伝統的な慣習に馴染めなくて、精神的に参ってしまうというような評され方を良くされます。しかし、本当はそのような俗なことではなく、「限りなく私心のない無私の生活」を求められることは、それまでそうした価値観とは違う生き方の中で暮らしてきた者にとっては、想像を絶することなのです。

戦後の皇族から個人的な意見をめったに聞かれないのも、決して戦争の責任からそれを謹んでいるということよりも、それが神主たる天皇の本来の姿だからなのです。
そして、その使命にしたがい、私心をなくして、ひたすらに天の意思を人々に示す生き方に徹しているのが天皇なのです。

それでは天の意思とは何かといえば、それこそが日本人の精神性である「和」です。
したがって天皇の言動のすべてが、和するための手本となるように、全てを徹しているのです。
だから、そのように私心をなくし、身を捧げて人々に和するための生き方を指し示す天皇を、昔の日本人は自分たちには到底真似の出来ないことと敬い慕い、さらに天皇に剣を向ける者があったなら、それを決して許さなかったのです。
靖国神社で西郷隆盛のような国民的な英雄が祀られていないのも、そうしたことに対するケジメからだといえます。

つまり、先の大戦で戦争の最高責任者といわれながらも、天皇に責任なしと主張する人々がいるのも、本質的に「言挙せず」の立場にある天皇は、実質的な権力を持った責任者ではなく、民族存亡の危機にあった当時の日本人の精神的な支えとしての役割を受け持ったに過ぎないと考えているからです。

Copyright(c) 2000-2008 Tatsu All rights reserved.

HOME