日本人にとって、お米は愛の象徴

日本の神話の中に、有名な「天孫降臨」の話があります。古事記によると天照大神は天孫降臨に際して、孫のニニギノミコトに稲穂を渡して、これで豊葦原の国を開拓して暮らしをたてなさいと神勅されています。
これが日本に稲作が伝わった始まりだともいわれていますが、さすがにこれだけでは学術的な史実とはなりえません。

むしろ稲穂は神道においては、一つの信仰的な象徴と捉えるべきでしょう。
稲とは「命の根」に由来して、それがイネとなりました。
確かにお米を主食とする私達にとっては、肉体を生かすための命の根はお米です。

それでは肉体の命の根がお米だとしたら、精神の命の根は何でしょうか。
「人はパンのみによって生きるにあらず」とは聖書に記されているイエスの言葉です。
確かに肉体はパンやお米といった食物によって生きるものですが、精神は違います。
人の精神が何によって生きるかを知るには、人がどのようなときに精神的な救いを求めるかを理解することでわかります。

もし私達が「自分は皆から愛されている、親からも、伴侶からも、仲間からも、社会からも」と、心から確信していたなら、決して「誰か私を救って!」と救いを求めることはありません。しかし、その反対に「自分は誰からも愛されていない、親からも、伴侶からも、社会からも」という思いが募るほどに、人は精神的に耐え切れぬほどに孤独になり、最後には「誰か私を救って!」という懇願になるのです。つまり、人は精神的には愛なしでは生きていかれないのです。「そんなことはない、自分は生きている」とうそぶく人がいたなら、それは単に自分の心とまともに向き合っていないから気付かないでいるに過ぎません。精神の命の根とは、間違いなく愛です。

「一粒万倍」という言葉があります。
それは一粒の籾(もみ)から万倍もの稲が収穫されるという意味です。
それと同じような逸話が先述したイエスにもあり、十ほどもないパンと魚のはずなのに、それらが集まった五千人の群衆全員に行き渡るという、奇跡が聖書には記されているのです。
また、夫婦の間に宿った新たな命を「愛の結晶」といいます。
つまり、愛には新たな命を生む力があるということです。
そして、こうした愛の働きがイエスの行った奇跡の逸話に表わされ、一粒万倍の働きをする稲に象徴されているのです。
つまり、稲とは単に食物としての命の根を意味するのではなく、精神の命の根である愛を象徴しているのです。そして、人々に愛を照らす神である天照大神が、ニニギノミコトに稲を託したのは、人々に愛を広めなさいという神勅だったことに他なりません。

日本人は昔からお米を特別扱いしてきましたが、それは経済的な意味合いからだけではありません。それは後付けの意味に過ぎないと言ってよいでしょう。
人々がお米に対して特別な価値を見出したのは、それが人間が生きるために不可欠な肉体的な命の根、そして、精神的な命の根を表しているからなのです。

つまり、私達の先祖が他の食物と違って、お米に特別に精神的な意味合いを持たせて尊ぶのは、それが人間にとって一番大切な命の根、すなわち「愛」を表しているからなのです。
また、そのような思いで食卓にあがったご飯をいただいたなら、真にお米のありがたさ、尊さを感じることが出来るでしょう。

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