神道の可能性
〜日本のオリジナルであって、そうではない神道〜

自然崇拝、そして先祖崇拝としての神道は、古来世界中のどこの国にも、また民族にもあったといえるでしょう。なぜなら本当に美しい夕日を見たとき、あるいは自然に触れたとき、人々は理屈抜きに感動します。そしてその感動がより深まれば、そこに人知を超えた深遠な働きを感じて、自ずと手を合わせたい気持ちにもなります。それが人間の本性というものです。

つまり教義や教典、理屈や理論以前の、人間の純粋な思いから発せられたものが神道だといえます。したがってどのような時代の、どのような民族であっても、人に喜怒哀楽があるように、神道のスピリッツ、つまり神ながらの道というものは、宗教や思想以前に人間の本性として、世界共通にあるものなのです。

近世、理論体系の確立されたものが高等宗教と呼ばれて、世界的な広がりをもって、こうした純粋な思いから発せられた宗教を圧倒してきました。

しかし、理論付けられ、組織だった宗教ほど、その一方で組織そのものを維持し、守るために体系化されたという一面も背負っています。そして、それが争いや憎しみを生み、宗教戦争という形で表れているのです。

こちらの神が本物であちらは偽物。
こちらの教えが正しくて、あちらは間違っている。
このようにして互いの宗教を批判しあい、自らの正当性を主張して、それを譲ろうとしません。

しかし、見事なほどまでに美しい朝日や夕日を見た時、あるいは大自然に触れた時、人々は決してそれを否定することなく、本当に素直に「きれいだよね」と互いに感動を分かち合い、心を一つにすることが出来ます。それが神道であり、神ながらの道なのです。

そして、組織を維持するためでも、自らを主張するためでもなく、ただ純粋に自然に対して畏敬の念を抱き、時に感動して手を合わせるという人間の本性にしたがった、古代からのこうした教えこそが、今こそ再評価されるべき時なのではないでしょうか。

そして、こうした教えを持つ数少ない生き残りの一つである日本の神道が、世界に果たせる役割も、非常に大きいといえるでしょう。

自然を感じ、自然に学ぶこと。
そして感動する心。
これこそ人が人として生きていく上での、すべての基ではないでしょうか。

Copyright(c) 2000-2008 Tatsu All rights reserved.

HOME